礼拝次第・説教要約
2025年4月13日 棕櫚の主日礼拝
前 奏
招 き ゼカリヤ2:15
賛 美 讃美歌21 25「父・子・聖霊に」
主の祈
交 読 交読詩編126編
賛 美 讃美歌21 83「聖なるかな」
祈 り
賛 美 讃美歌21 309「あがないの主に」
聖 書 ヨハネによる福音書19章25~30節(「新共同訳」新約207頁)
説 教 「ただ一つの栄光」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌21 358「小羊をばほめたたえよ!」
献 金
賛 美 讃美歌21 28「み栄えあれや」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 ― ヨハネ1:29b
《本日(2025年4月13日)のメッセージ要約》ヨハネ19章25~30節「ただ一つの栄光」
十字架刑は、苦しみ多き、残忍な処刑方法でありましたが、その十字架は「栄光」であると主が話された言葉がヨハネによる福音書には記されています。「人の子が栄光を受ける時が来た。」(12:23)。なぜ十字架が栄光であるのでしょうか。それは、主イエスが神様を信じて、神様の御心に生きられたからです。28節には主の言葉で「渇く」とあります。この言葉は詩編69編の御言葉の実現となりましたが、主イエスが神様の御心に生ききりたいと願われていた、その思いを明らかにされた言葉でした。主は神様のご意向に沿うように、苦難の杯を飲み干そうとされて、「渇く」と語られたのです。また30節の「息を引き取られた。」という言葉は、「息を渡された」と訳すこともできる言葉で、主イエスは自ら十字架を背負われ、自ら命の息を神様にお渡しになりました。神様を信じ、神様の御心に生きる、そこに神様の栄光が現わされます。神様に対する従順が完成された、それが主の十字架であったのです。神様の御心は、御子イエスの命を通して、すべての人を救い出すというものでありました。この神様の御心に生きて、主イエスは救いを成し遂げられました。神様は世を裁くためではなく、ご自分の独り子が裁かれることによって、苦しみを引き受けられることによって、私たちのための慈しみを明らかにされました。私たちは主の十字架のもとにあって、神様の慈しみを受けます。主の十字架により神様とつながることを通して、共に神様を信じ、神様の栄光をほめたたえ、この受難週を歩みたいと願います。 丸茂 誠
2025年4月6日 受難節第五主日礼拝
前 奏
招 き イザヤ53:5
賛 美 讃美歌 545「父の御神に」
主の祈
交 読 交読詩編61編
賛 美 讃美歌 257「十字架のうえに」
祈 り
賛 美 讃美歌 280「わが身ののぞみは」
聖 書 ヨハネによる福音書19章16節~24節(「新共同訳」新約207頁)
説 教 「わたしのために」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌第二編 185「カルバリ山の」
献 金
聖餐式
賛 美 讃美歌 539「あめつちこぞりて」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
はっきり言っておく。
信じる者は永遠の命を得ている。 ― ヨハネ6:47
《本日(2025年4月6日)のメッセージ要約》ヨハネ19章16~24節「わたしのために」
ピラトは主イエスの十字架に罪状書きを書いて掛けました。ピラトの書いた罪状書きは、ピラトの思いを越えて、真理を伝えることとなりました。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」この言葉には、主イエスとは誰であるのかが明らかにされています。十字架につけられた主イエスこそ、神の民の本当の王様であられたということです。
主を十字架につけたのは、どこの誰なのか、それは紛れもなく私であり、主の十字架の死は私と関係のない出来事ではないということ、そのことを知らされ、受け入れるとき、そこに私のための救いがもたらされていることに気づかされます。主イエスは私の罪ゆえに十字架にかかられた、それによって私の王様となってくださって、私を神の民として神様のもとに引き寄せて下さったと知らされます。主イエスを十字架につけたのは誰か、私であると受け入れるのか受け入れないのか、主イエスが十字架にかかったのは誰のためか、私のためであると信じるのか信じないのか、主は問いかけています。神様は御子イエスを十字架につけられ、神の民の王とされたことで、すべての人を慈しみ、導いておられることを示されました。私のために神様が慈しみをもたらされた、私と共に神様はいてくださる、私たちは私という存在をもって主からの問いかけに応え、主を受け入れ、信じる者とされるのです。私のために主イエスは十字架を背負われたということを受け取り、そこに神様の豊かな導きが、贖いが与えられたことを信じて、受難節の新たな週を歩み出していきましょう。丸茂 誠
2025年3月30日 受難節第四主日礼拝
前 奏
招 き ミカ7:18
賛 美 讃美歌21 28「み栄えあれや」
主の祈
交 読 交読詩編42編
賛 美 讃美歌21 505「歩ませてください」
祈 り
賛 美 讃美歌21 297「栄えの主イエスの」
聖 書 ヨハネによる福音書19章1節~7節(「新共同訳」新約206頁)
説 教 「本当の王様」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌21 303「丘の上の主の十字架」
献 金
賛 美 讃美歌21 25「父・子・聖霊に」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。 ― イザヤ53:6
《本日(2025年3月30日)のメッセージ要約》ヨハネ19章1~7節「本当の王様」
ピラトは主イエスをユダヤ人たちに示して、「見よ、この男だ」と言いました。このピラトの言葉は「見よ、人間だ」あるいは「この人を見なさい」とも訳すことができます。その言葉は、この痛々しい人の姿を見なさい、このような人にどんな罪を見い出すことができるのか、そうした意図をもった言葉です。しかしそうしたピラトの意図に反して、ユダヤの祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫びました。ピラトやユダヤ人たちの姿は、人間の姿、私たちの姿です。自分が自分の王様であることから離れられず、自分にもたらされていることに恐れをもって、それを受けとめていくことよりも、それを排除しようとしてしまいます。私たちの弱さと罪が渦巻く中で、主イエスは十字架につけられていくこととなりました。救い主を十字架にかけた私たち人間に対して、神様は私たちを救うために御子の命を差し出してくださいました。ピラトやユダヤ人たちの姿は私たち人間の姿でありますが、主イエスの姿もまた人間の姿であることを私たちは見つめていくことができます。「見よ、この男だ」と、ピラトは無力でみじめな人としてイエスを指し示したのですが、その言葉は意図せずして、主イエスを見つめるということをユダヤの人々に促す言葉となりました。主イエスこそが私を司る本当の王様であると受け取り、信じて、私たちはイエスこそが私の主であると応えていきます。私の弱さと罪のために苦しみを引き受けられた主イエスを見つめることへと一人一人が招かれています。 丸茂 誠
2025年3月23日 受難節第三主日礼拝
前 奏
招 き ナホム1:7
賛 美 讃美歌 545「父の御神に」
主の祈り
交 読 交読詩編14編
賛 美 讃美歌 23「くるあさごとに」
祈 り
賛 美 讃美歌 365「わが主イエスよ」
聖 書 ヨハネによる福音書18章33節~40節(「新共同訳」新約205頁)
説 教 「わたしの声」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌 140「いのちのいのちに」
献 金
賛 美 讃美歌 539「あめつちこぞりて」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》 真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。 ― ヨハネ18:37d
《本日(2025年3月23日)のメッセージ要約》ヨハネ18章33~40節「わたしの声」
捕らえられた主イエスの身柄は、大祭司カイアファのもとからローマ帝国のユダヤ総督であったピラトのもとへ送られました。ピラトに対してユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と述べ、主イエスの極刑を求めました。そうした中でピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と主イエスに問いました。主は「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」と言われました。主イエスが何者であるか、それは「誰かがこう言っている」という問題ではなく、「私が主イエスのことをどう思うか」という問題であることを主は投げかけました。すべての人を信じることへと導くために主は十字架へと歩んでいかれました。ピラトの信仰を促すために主イエスは問いかけられたのです。しかしピラトは主イエスの言葉と向き合うことはできませんでした。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と話された主イエスでしたが、ピラトは「真理とは何か」と述べたものの、ピラトの向かった先はユダヤ人たちの前でした。「真理とは何か。」そのことはヨハネによる福音書3章16節に明かされています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この神様の愛を、主イエスは言葉によって証しされただけでなく、十字架の死と復活の命によって示されました。独り子の命をさえ与えて下さった神様の愛、この真理と向き合って、レントを歩みたいと願います。 丸茂 誠
2025年3月16日 受難節第二主日礼拝
前 奏
招 き エゼキエル34:12
賛 美 讃美歌21 85「サント サント サント」
主の祈
交 読 交読詩編43編
賛 美 讃美歌21 300「十字架のもとに」
祈 り
賛 美 讃美歌21 197「ああ主のひとみ」
聖 書 ヨハネによる福音書18章19節~24節(「新共同訳」新約204頁)
説 教 「ここにいること」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌21 430「とびらの外に」
献 金
賛 美 讃美歌21 28「み栄えあれや」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
主をたたえよ
日々、わたしたちを担い、救われる神を。 ― 詩編68:20
《本日(2025年3月16日)のメッセージ要約》ヨハネ18章19~24節「ここにいること」
主イエスは捕らえられ、アンナスのもとで尋問を受けられました。アンナスは神様を心に留めて、神様の真理を見い出そうとして主イエスと相対したのではなく、大祭司の権威によって主イエスをひざまずかせ、従わせようとしたのでしょう。人の間での権威、あるいはその権威の傘の下での暴力に対峙して、主イエスは神様の権威に基づいて、ご自身の存在をご自身で証明されました。
主イエスは政治的な解放を成し遂げるために遣わされた救い主ではありませんでした。すべての人に、すべての事柄に神様の導きがあり、神様からの慈しみと希望が与えられていることを示すために到来した救い主でありました。そのことを、大祭司はじめ宗教指導者たちは受け取ることができず、人間的な事柄に捕らわれていました。それは、時の宗教指導者たちのみならず、民衆や主イエスの弟子たちもまた同様であって、自分たちの願望により物事を図り、自らの都合により他者に期待を寄せたり、利用しようとしたりする、人は自らの思いを強くしてしまう者であることに気づかされます。しかし、そうした私たち人間のことを神様はすべてご存知で、人間の罪深い姿までもその御手の業の中に加えられて、御心を成し遂げられるということをヨハネによる福音書は証ししています。すべての事柄を越えて神様は存在し、一人一人が神様の導きのもとに存在します。私たちが抱える苦しみ、悲しみに神様は共におられる、その神様の御心が十字架で示されるために、主イエスは十字架へと進み出ていかれたのでした。 丸茂 誠
2025年3月9日 受難節第一主日礼拝
前 奏
招 き イザヤ42:20~21
賛 美 讃美歌 546「聖なるかな」
主の祈
交 読 交読詩編12編
賛 美 讃美歌 298「やすかれ、わがこころよ」
祈 り
賛 美 讃美歌 136「血しおしたたる」
聖 書 ヨハネによる福音書18章1節~11節(「新共同訳」新約203頁)
説 教 「進み出て」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌 344「とらえたまえ、わが身を」
献 金
賛 美 讃美歌 542「世をこぞりて」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
目の見えない人を導いて知らない道を行かせ
通ったことのない道を歩かせる。
行く手の闇を光に変え
曲がった道をまっすぐにする。
わたしはこれらのことを成就させ
見捨てることはない。 ― イザヤ42:16
《本日(2025年3月9日)のメッセージ要約》ヨハネ18章1~11節「進み出て」
主イエスは捕らえられました。神様の御心の実現に向けて歩み、神様にすべてを委ねる中で進み出て、主イエスは十字架へと向かわれました。「進み出る」という言葉は、「外に出る」という意味ですが、それは、身体的な動きを表すのと同時に、信仰的な意味合いを含んでいます。「進み出る」とは、神様に自分をお任せするということです。自分の内で納得できたり、理解できたりすることによって図ろうとするのではなく、自分のあずかり知らないことに自分を投げ出していくこと、すなわち、自分を神様に委ねていくということです。主イエスは神様に信頼して、神様の御心を受け取り、すべてを委ねて十字架へと歩まれました。私たちもまた、神様に自分を委ねていく歩みへと進み出ていくことができます。主イエスの成し遂げられたことが私に与えられている救いであると受け取ること、イエスこそ私の主であると信じること、自分を神様に明け渡し、まことの光によって歩むこと、そのことへと進み出ていくことができます。暗闇の中でこそ輝いている光を見ていきましょう。すべてを導いておられる神様に自らを明け渡し、主を信じて、このレントの期間を歩み出していきたいと願います。 丸茂 誠
2025年3月2日 第一主日礼拝
前 奏
招 き エレミヤ31:3
賛 美 讃美歌 540「みめぐみあふるる」
主の祈
交 読 交読詩編130編
賛 美
祈 り 讃美歌 187「主よ、いのちの」
賛 美 讃美歌 269「つみの重荷を」
聖 書 ヨハネによる福音書17章1節~5節(「新共同訳」新約202頁)
説 教 「命と永遠」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌 531「こころの緒琴に」
献 金
聖餐式
賛 美 讃美歌 543「主イエスのめぐみよ」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、
あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 ― ヨハネ17:3
《本日(2025年3月2日)のメッセージ要約》ヨハネ17章1~5節「命と永遠」
「永遠の命」とは、この世の時間経過の中で話されている言葉ではなく、神様の永遠の内に命があることを意味しています。私の命と神様の永遠がつながっているということを表しています。神様は主イエスを通して永遠の命を示されました。救い主イエスは、神様の御子でありながらも人となり、人が抱える苦しみや痛みを引き受けられ、十字架にかかられました。主の十字架の死は私たちのためでした。救い主を十字架にかけてしまうという罪が極まってもなお、神様は私たちの命を引き取るのでなく、御子の命を引き取ることで、私たちを贖ってくださり、共にいてくださっていることを明らかにされました。さらに神様は十字架の死から主イエスを復活させ、どのような時にも共におられ、命を司っておられるということを明らかにされました。神様の恵みの御心が主イエスによって明らかにされ、神様は私たちの命と共にあって、永遠に寄り添っていてくださる、そのことが示されたのでした。私たちを導いている存在は神様であること、神様は救い主イエスによって私たちに贖いと希望を与えられたということ、このことを受け取ることができる恵みを私たちは知らされています。私と神様はつながっているのだと信じることができる幸いを与えられていて、私たちは今、永遠の命に生きているのです。 丸茂 誠