礼拝次第・説教要約
2025年5月25日 第四主日礼拝
前 奏
招 き 箴言3:3
賛 美 讃美歌 546「聖なるかな」
主の祈
交 読 交読詩編47編
賛 美 讃美歌第二編 59「すべてのもの統らすかみよ」
祈 り
賛 美 讃美歌 158「あめには御使(みつかい)」
聖 書 ヨハネによる福音書20章30節~31節(「新共同訳」新約210頁)
説 教 「心にあなたを」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌 215「あしたのひかり」
献 金
賛 美 讃美歌 542「世をこぞりて」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、
信じてイエスの名により命を受けるためである。 ― ヨハネ20:31
《本日(2025年5月25日)のメッセージ要約》ヨハネ20章30~31節「心にあなたを」
今日与えられた聖書箇所には、ヨハネによる福音書の執筆の目的が記されています。「イエスは神の子メシアであると信じる」、この言葉で決定的なのは「イエス」という名前が記されていることです。イエスこそが神の子で、この世に遣わされた救い主である、この信仰を告白して、証ししているのは、あなたがたが信じるため、あなたがたが信仰の歩みへと踏み出すためであると表されています。「イエス」の名前が明示されている、それゆえに、イエスこそが私の救い主であると信じた時、イエスの名により命を受けると明らかにされています。イエスが救い主であると信じて命を受けること、それは、神様を知り、主イエスを知り、永遠の命に生きる者とされるということです。肉体は息を引き取るものであるけれども、命はいつまでもなくならず、命はいつも神様のもとに存在します。主イエスを信じる時、自分が永遠の命に生きている者であることを受け取るのです。私は消えない命に生きている、いつも神様と共にある、このことを福音書を読んだ一人一人が受け取って、このことに生きるためにヨハネによる福音書は執筆されたということを記しています。私たちは「イエスは神の子メシアであると信じる」この信仰を告白する者とされ、「信じてイエスの名による命」を受け、神様と共にある平安のうちに生きる幸いを与えられています。主イエスこそ救い主であると信じ、日々永遠の命に生きていることを受けとって、信仰を証しし歩んでいきましょう。 丸茂 誠
2025年5月18日 第三主日礼拝
前 奏
招 き 詩編118:22~23
賛 美 讃美歌 539「あめつちこぞりて」
主の祈
交 読 交読詩編84編
賛 美 讃美歌 217「あまつましみず」
祈 り
賛 美 讃美歌 506「たえなる愛かな」
聖 書 ヨハネによる福音書20章24節~29節(「新共同訳」新約210頁)
説 教 「信じられないからこそ」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌 275「つよき神の子」
献 金
賛 美 讃美歌 543「主イエスのめぐみよ」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 ― ヨハネ20:18
《本日(2025年5月18日)のメッセージ要約》ヨハネ20章24~29節「信じられないからこそ」
主イエスが復活された日から八日目、トマスが弟子たちと一緒に家の中にいたところ、主イエスは来られました。トマスは弟子たちの証言を受け入れず、実際に主イエスの体を見たり、触れたりしなければ信じないと考えていました。自分が納得しなければ自分の考えは変わらないとして、自分が自分の主で、主導権は自分にあると考えていたのです。主イエスは復活されたご自分の体を示し、「信じない者ではなく信じる者になりなさい」と言われました。「信じる者になること」、そのために十字架にかかり、死して葬られ、復活された、このことを伝えるため主イエスは復活された体を示されました。体が蘇ったこと自体を信じてもらうために主イエスはトマスに対面されたのではありませんでした。私は十字架にかかり、私は復活した、それはあなたが信じる者になるためであるのだと主イエスは伝えられたのです。主イエスはご自分の体の傷跡を、トマスの罪の結果であったとして、責めるために示されたのではありませんでした。目に見えることを求め、信じることができない私たちに、目には見えない神様の存在、その慈しみの御心を示してくださり、信じる者とするために、十字架と復活を示されたのでした。ヨハネによる福音書は執筆の目的をこう記しています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(20:31)この信仰をトマスに与えるために、主イエスは十字架と復活を示されたのでした。丸茂 誠
2025年5月11日 召天者記念礼拝
前 奏
招 き 哀歌3:22
賛 美 讃美歌 545「父の御神に」
主の祈
交 読 交読詩編23編
賛 美 讃美歌第二編 26「ちいさなかごに」
祈 り
賛 美 讃美歌21 385「花彩る春を」
聖 書 ヨハネによる福音書11章17節~27節(「新共同訳」新約189頁)
説 教 「続く命」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌21 575「球根の中には」
献 金
賛 美 讃美歌 405「かみともにいまして」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、
永遠を思う心を人に与えられる。 ― コヘレト3:11a
《本日(2025年5月11日)のメッセージ要約》ヨハネ11章17~27節「続く命」
主イエスは、愛する者を失い、悲しんでいる人のところに来てくださいました。17節の言葉です。「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」「イエスが行って御覧になると」という言葉には、ラザロが墓に支配されている、その現実を見つめたという意味が込められています。墓に所有されている、死の支配の中に捕えられている、そうした現実を主イエスはご覧になられました。命あるものが迎える死というもの、その死を通して寂しさや悲しみを抱えるということ、その深層を主イエスは見つめ、私たちが生きる現実のただ中に来られました。主イエスは「わたしは復活であり、命である」と告げて下さり、死を越えて存在する命について明らかにされました。
私たちは肉体の死を越えて生きる命、決して死ぬことがない命が与えられていることを知らされています。命の行き着く先は死や闇ではありません。いつも神様のもとに命は存在します。主イエスは、私たちのために十字架で息を引き取り、墓に葬られました。死に捕らわれても、神様とのつながりは絶たれない、そのことが復活によって示されました。主イエスが示されたことを受け入れ、主を信じるとき、私たちもまた神様とのつながりが絶たれることはなく、神様のもとに命は存在することを知らされます。召された方々は天の神様のもとで続く命に生きておられます。命の在りかが違っていても、親しい交わりが絶えることはありません。私たちは神様のもとにある命に生きていて、召された方々と再会することができる希望を知らされています。 丸茂 誠
2025年5月4日 第一主日礼拝
前 奏
招 き イザヤ55:5
賛 美 讃美歌 545「父の御神に」
主の祈
交 読 交読詩編93編
賛 美 讃美歌 19「みこえきくとて」
祈 り
賛 美 讃美歌 148「すくいのぬしは」
聖 書 ヨハネによる福音書19章19節~23節(「新共同訳」新約210頁)
説 教 「私に」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌 511「みゆるしあらずば」
献 金
聖餐式
賛 美 讃美歌 540「みめぐみあふるる」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
弟子たちは、主を見て喜んだ。 ― ヨハネ20:20b
《本日(2025年5月4日)のメッセージ要約》ヨハネ20章19~23節「私に」
弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。そこへ復活された主イエスは現れました。主は弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と呼びかけられました。平和とは、神様との関係を回復することを意味します。私たちの恐れにより十字架が引き起こされましたが、神様が私たちのことをすべてご存知で御子の十字架と復活をもたらされたということを示して、主は平和を語りかけられました。20節の言葉の中の「手とわき腹とをお見せになった。」という言葉のうちの「お見せになった」と記されている言葉は、主イエスを見ることによって神様を見ることができる、という意味で書かれています。その言葉は、父なる神様と独り子イエスが深い関係性の中で、互いの内に生きているということを示し、主イエスは弟子たちを神様との関係性に招かれました。神様との恵みの交わりに自分がいるということを受け入れること、信じること、そのことへと主は弟子たちを導かれました。20節の後半の言葉で「弟子たちは、主を見て喜んだ。」とあります。弟子たちは単に主が生き返った姿を見たということだけではなく、信仰の目を持って主イエスを見ました。神様の赦しと慈しみが自分たちにもたらされた、このことを受け取って、救い主イエスを信じることができました。主イエスは十字架と復活を通して「あなたがたに平和があるように」と私たちに呼びかけてくださり、神様と共に生きる平和を与えてくださいました。このことを受け取り、信じることができる喜びをもって、歩み出しましょう。 丸茂 誠
2025年4月27日 第四主日礼拝
前 奏
招 き 詩編68:21
賛 美 讃美歌 546「聖なるかな」
主の祈
交 読 交読詩編100編
賛 美 讃美歌 147「よろこびたたえよ」
祈 り
賛 美 讃美歌 501「いのちのみことば」
転入会式
聖 書 ヨハネによる福音書20章11~18節(「新共同訳」新約209頁)
説 教 「わたしを解き放つ」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌 354「かいぬしわが主よ」
献 金
賛 美 讃美歌 543「主イエスのめぐみよ」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」 ― ヨハネ11:25
《本日(2025年4月27日)のメッセージ要約》ヨハネ20章11~18節「わたしを解き放つ」
週の初めの日の朝、マグダラのマリアは主イエスの墓に行き、墓の石が取りのけてあるのを見ました。マリアは、どこに主の遺体が持ち去られてしまったのか分からず、悲しみに暮れていました。そこへ復活された主イエスが現れ、主は後ろからマリアに呼びかけられました。自分が見ていた方向ではなく、反対の方に主はおられ、マリアは振り向いて主を見ました。自分には思いもよらないところからもたらされた神様の救いの御業を賛美しつつ、神様に導かれてまだ見ぬ未来を歩んでいく、神様の導きに自らを委ねていくことへと、主イエスはマリアを導かれました。マリアは主イエスからの言葉を託され、弟子たちのところへ行き、「わたしは主を見ました」と告げました。「見ました」というのは、信仰の目を持って見たということ、受け取った、信じたということを示します。「私は主を発見した」と告げたのではなく、「わたしは主を信じた」と告げたのです。主イエスの復活によって、マリアは自分が目の前に見ていることから解き放たれて、主が望み見ていることへと一歩を踏み出しました。救い主イエス、それは私を解き放つ主である、マリアは私の主イエスからの言葉を受けとめ、主の存在を信じました。主イエスは私たちのことをいつも神様に至る道へと促し、呼びかけてくださいます。神様のもとに私たちは招かれ、一人一人が神の子としての恵みを享受することができる、その幸いを与えられています。主の復活によって私たちに知らされた赦しと希望を受け取って、新しい命に生きていきましょう。 丸茂 誠
2025年4月20日 イースター礼拝
前 奏
招 き ホセア6:1~3
賛 美 讃美歌 544「あまつみたみも」
主の祈
交 読 交読詩編98編
賛 美 讃美歌 154「地よ、声たかく」
祈 り
賛 美 讃美歌 453「きけや愛の言葉を」
聖 書 ヨハネによる福音書20章1~10節(「新共同訳」新約209頁)
説 教 「夜が明けた」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌 533「くしき主の光」
献 金
賛 美 讃美歌 540「みめぐみあふるる」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
起きよ、光を放て。
あなたを照らす光は昇り
主の栄光はあなたの上に輝く。 ― イザヤ60:1
《本日(4/20)イースターのメッセージ要約》ヨハネ20章1~10節 「夜が明けた」
闇の中にいる私たちに、神様は夜明けをもたらされました。私たちが抱える虚しさや寂しさ、葛藤や引け目、驕りや高ぶり、痛みや悲しみ、そうした暗闇を抱える私たちのところに神様は御子イエスを誕生させ、御子イエスは私たちのための救い主として、この世の最も小さい者となり、十字架で極限の苦しみを引き受けられました。暗闇でしか見えないことを見てくださり、この暗闇に神様は復活の光を創造されました。一日一日、夜が明けて、日が続いていくように、命もまた神様によって夜が明けていきます。命の終わりがあっても神様からの光に照らされて、命は神様のもとに続いていく、そのことを神様は主イエスの復活によって、私たちに明かされました。分からないことがあっても、神様は私という存在に光をあててくださっていて、導いておられる、そのことを受けとめ、自分にもたらされていることだと知らされるとき、私たちは信じることへと踏み出していくことができます。日々、私たちに夜明けをもたらしてくださる神様をほめたたえます。丸茂 誠
2025年4月13日 棕櫚の主日礼拝
前 奏
招 き ゼカリヤ2:15
賛 美 讃美歌21 25「父・子・聖霊に」
主の祈
交 読 交読詩編126編
賛 美 讃美歌21 83「聖なるかな」
祈 り
賛 美 讃美歌21 309「あがないの主に」
聖 書 ヨハネによる福音書19章25~30節(「新共同訳」新約207頁)
説 教 「ただ一つの栄光」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌21 358「小羊をばほめたたえよ!」
献 金
賛 美 讃美歌21 28「み栄えあれや」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 ― ヨハネ1:29b
《本日(2025年4月13日)のメッセージ要約》ヨハネ19章25~30節「ただ一つの栄光」
十字架刑は、苦しみ多き、残忍な処刑方法でありましたが、その十字架は「栄光」であると主が話された言葉がヨハネによる福音書には記されています。「人の子が栄光を受ける時が来た。」(12:23)。なぜ十字架が栄光であるのでしょうか。それは、主イエスが神様を信じて、神様の御心に生きられたからです。28節には主の言葉で「渇く」とあります。この言葉は詩編69編の御言葉の実現となりましたが、主イエスが神様の御心に生ききりたいと願われていた、その思いを明らかにされた言葉でした。主は神様のご意向に沿うように、苦難の杯を飲み干そうとされて、「渇く」と語られたのです。また30節の「息を引き取られた。」という言葉は、「息を渡された」と訳すこともできる言葉で、主イエスは自ら十字架を背負われ、自ら命の息を神様にお渡しになりました。神様を信じ、神様の御心に生きる、そこに神様の栄光が現わされます。神様に対する従順が完成された、それが主の十字架であったのです。神様の御心は、御子イエスの命を通して、すべての人を救い出すというものでありました。この神様の御心に生きて、主イエスは救いを成し遂げられました。神様は世を裁くためではなく、ご自分の独り子が裁かれることによって、苦しみを引き受けられることによって、私たちのための慈しみを明らかにされました。私たちは主の十字架のもとにあって、神様の慈しみを受けます。主の十字架により神様とつながることを通して、共に神様を信じ、神様の栄光をほめたたえ、この受難週を歩みたいと願います。 丸茂 誠
2025年4月6日 受難節第五主日礼拝
前 奏
招 き イザヤ53:5
賛 美 讃美歌 545「父の御神に」
主の祈
交 読 交読詩編61編
賛 美 讃美歌 257「十字架のうえに」
祈 り
賛 美 讃美歌 280「わが身ののぞみは」
聖 書 ヨハネによる福音書19章16節~24節(「新共同訳」新約207頁)
説 教 「わたしのために」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌第二編 185「カルバリ山の」
献 金
聖餐式
賛 美 讃美歌 539「あめつちこぞりて」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
はっきり言っておく。
信じる者は永遠の命を得ている。 ― ヨハネ6:47
《本日(2025年4月6日)のメッセージ要約》ヨハネ19章16~24節「わたしのために」
ピラトは主イエスの十字架に罪状書きを書いて掛けました。ピラトの書いた罪状書きは、ピラトの思いを越えて、真理を伝えることとなりました。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」この言葉には、主イエスとは誰であるのかが明らかにされています。十字架につけられた主イエスこそ、神の民の本当の王様であられたということです。
主を十字架につけたのは、どこの誰なのか、それは紛れもなく私であり、主の十字架の死は私と関係のない出来事ではないということ、そのことを知らされ、受け入れるとき、そこに私のための救いがもたらされていることに気づかされます。主イエスは私の罪ゆえに十字架にかかられた、それによって私の王様となってくださって、私を神の民として神様のもとに引き寄せて下さったと知らされます。主イエスを十字架につけたのは誰か、私であると受け入れるのか受け入れないのか、主イエスが十字架にかかったのは誰のためか、私のためであると信じるのか信じないのか、主は問いかけています。神様は御子イエスを十字架につけられ、神の民の王とされたことで、すべての人を慈しみ、導いておられることを示されました。私のために神様が慈しみをもたらされた、私と共に神様はいてくださる、私たちは私という存在をもって主からの問いかけに応え、主を受け入れ、信じる者とされるのです。私のために主イエスは十字架を背負われたということを受け取り、そこに神様の豊かな導きが、贖いが与えられたことを信じて、受難節の新たな週を歩み出していきましょう。丸茂 誠
2025年3月30日 受難節第四主日礼拝
前 奏
招 き ミカ7:18
賛 美 讃美歌21 28「み栄えあれや」
主の祈
交 読 交読詩編42編
賛 美 讃美歌21 505「歩ませてください」
祈 り
賛 美 讃美歌21 297「栄えの主イエスの」
聖 書 ヨハネによる福音書19章1節~7節(「新共同訳」新約206頁)
説 教 「本当の王様」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌21 303「丘の上の主の十字架」
献 金
賛 美 讃美歌21 25「父・子・聖霊に」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。 ― イザヤ53:6
《本日(2025年3月30日)のメッセージ要約》ヨハネ19章1~7節「本当の王様」
ピラトは主イエスをユダヤ人たちに示して、「見よ、この男だ」と言いました。このピラトの言葉は「見よ、人間だ」あるいは「この人を見なさい」とも訳すことができます。その言葉は、この痛々しい人の姿を見なさい、このような人にどんな罪を見い出すことができるのか、そうした意図をもった言葉です。しかしそうしたピラトの意図に反して、ユダヤの祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫びました。ピラトやユダヤ人たちの姿は、人間の姿、私たちの姿です。自分が自分の王様であることから離れられず、自分にもたらされていることに恐れをもって、それを受けとめていくことよりも、それを排除しようとしてしまいます。私たちの弱さと罪が渦巻く中で、主イエスは十字架につけられていくこととなりました。救い主を十字架にかけた私たち人間に対して、神様は私たちを救うために御子の命を差し出してくださいました。ピラトやユダヤ人たちの姿は私たち人間の姿でありますが、主イエスの姿もまた人間の姿であることを私たちは見つめていくことができます。「見よ、この男だ」と、ピラトは無力でみじめな人としてイエスを指し示したのですが、その言葉は意図せずして、主イエスを見つめるということをユダヤの人々に促す言葉となりました。主イエスこそが私を司る本当の王様であると受け取り、信じて、私たちはイエスこそが私の主であると応えていきます。私の弱さと罪のために苦しみを引き受けられた主イエスを見つめることへと一人一人が招かれています。 丸茂 誠
2025年3月23日 受難節第三主日礼拝
前 奏
招 き ナホム1:7
賛 美 讃美歌 545「父の御神に」
主の祈り
交 読 交読詩編14編
賛 美 讃美歌 23「くるあさごとに」
祈 り
賛 美 讃美歌 365「わが主イエスよ」
聖 書 ヨハネによる福音書18章33節~40節(「新共同訳」新約205頁)
説 教 「わたしの声」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌 140「いのちのいのちに」
献 金
賛 美 讃美歌 539「あめつちこぞりて」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》 真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。 ― ヨハネ18:37d
《本日(2025年3月23日)のメッセージ要約》ヨハネ18章33~40節「わたしの声」
捕らえられた主イエスの身柄は、大祭司カイアファのもとからローマ帝国のユダヤ総督であったピラトのもとへ送られました。ピラトに対してユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と述べ、主イエスの極刑を求めました。そうした中でピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と主イエスに問いました。主は「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」と言われました。主イエスが何者であるか、それは「誰かがこう言っている」という問題ではなく、「私が主イエスのことをどう思うか」という問題であることを主は投げかけました。すべての人を信じることへと導くために主は十字架へと歩んでいかれました。ピラトの信仰を促すために主イエスは問いかけられたのです。しかしピラトは主イエスの言葉と向き合うことはできませんでした。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と話された主イエスでしたが、ピラトは「真理とは何か」と述べたものの、ピラトの向かった先はユダヤ人たちの前でした。「真理とは何か。」そのことはヨハネによる福音書3章16節に明かされています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この神様の愛を、主イエスは言葉によって証しされただけでなく、十字架の死と復活の命によって示されました。独り子の命をさえ与えて下さった神様の愛、この真理と向き合って、レントを歩みたいと願います。 丸茂 誠
2025年3月16日 受難節第二主日礼拝
前 奏
招 き エゼキエル34:12
賛 美 讃美歌21 85「サント サント サント」
主の祈
交 読 交読詩編43編
賛 美 讃美歌21 300「十字架のもとに」
祈 り
賛 美 讃美歌21 197「ああ主のひとみ」
聖 書 ヨハネによる福音書18章19節~24節(「新共同訳」新約204頁)
説 教 「ここにいること」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌21 430「とびらの外に」
献 金
賛 美 讃美歌21 28「み栄えあれや」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
主をたたえよ
日々、わたしたちを担い、救われる神を。 ― 詩編68:20
《本日(2025年3月16日)のメッセージ要約》ヨハネ18章19~24節「ここにいること」
主イエスは捕らえられ、アンナスのもとで尋問を受けられました。アンナスは神様を心に留めて、神様の真理を見い出そうとして主イエスと相対したのではなく、大祭司の権威によって主イエスをひざまずかせ、従わせようとしたのでしょう。人の間での権威、あるいはその権威の傘の下での暴力に対峙して、主イエスは神様の権威に基づいて、ご自身の存在をご自身で証明されました。
主イエスは政治的な解放を成し遂げるために遣わされた救い主ではありませんでした。すべての人に、すべての事柄に神様の導きがあり、神様からの慈しみと希望が与えられていることを示すために到来した救い主でありました。そのことを、大祭司はじめ宗教指導者たちは受け取ることができず、人間的な事柄に捕らわれていました。それは、時の宗教指導者たちのみならず、民衆や主イエスの弟子たちもまた同様であって、自分たちの願望により物事を図り、自らの都合により他者に期待を寄せたり、利用しようとしたりする、人は自らの思いを強くしてしまう者であることに気づかされます。しかし、そうした私たち人間のことを神様はすべてご存知で、人間の罪深い姿までもその御手の業の中に加えられて、御心を成し遂げられるということをヨハネによる福音書は証ししています。すべての事柄を越えて神様は存在し、一人一人が神様の導きのもとに存在します。私たちが抱える苦しみ、悲しみに神様は共におられる、その神様の御心が十字架で示されるために、主イエスは十字架へと進み出ていかれたのでした。 丸茂 誠
2025年3月9日 受難節第一主日礼拝
前 奏
招 き イザヤ42:20~21
賛 美 讃美歌 546「聖なるかな」
主の祈
交 読 交読詩編12編
賛 美 讃美歌 298「やすかれ、わがこころよ」
祈 り
賛 美 讃美歌 136「血しおしたたる」
聖 書 ヨハネによる福音書18章1節~11節(「新共同訳」新約203頁)
説 教 「進み出て」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌 344「とらえたまえ、わが身を」
献 金
賛 美 讃美歌 542「世をこぞりて」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
目の見えない人を導いて知らない道を行かせ
通ったことのない道を歩かせる。
行く手の闇を光に変え
曲がった道をまっすぐにする。
わたしはこれらのことを成就させ
見捨てることはない。 ― イザヤ42:16
《本日(2025年3月9日)のメッセージ要約》ヨハネ18章1~11節「進み出て」
主イエスは捕らえられました。神様の御心の実現に向けて歩み、神様にすべてを委ねる中で進み出て、主イエスは十字架へと向かわれました。「進み出る」という言葉は、「外に出る」という意味ですが、それは、身体的な動きを表すのと同時に、信仰的な意味合いを含んでいます。「進み出る」とは、神様に自分をお任せするということです。自分の内で納得できたり、理解できたりすることによって図ろうとするのではなく、自分のあずかり知らないことに自分を投げ出していくこと、すなわち、自分を神様に委ねていくということです。主イエスは神様に信頼して、神様の御心を受け取り、すべてを委ねて十字架へと歩まれました。私たちもまた、神様に自分を委ねていく歩みへと進み出ていくことができます。主イエスの成し遂げられたことが私に与えられている救いであると受け取ること、イエスこそ私の主であると信じること、自分を神様に明け渡し、まことの光によって歩むこと、そのことへと進み出ていくことができます。暗闇の中でこそ輝いている光を見ていきましょう。すべてを導いておられる神様に自らを明け渡し、主を信じて、このレントの期間を歩み出していきたいと願います。 丸茂 誠
2025年3月2日 第一主日礼拝
前 奏
招 き エレミヤ31:3
賛 美 讃美歌 540「みめぐみあふるる」
主の祈
交 読 交読詩編130編
賛 美
祈 り 讃美歌 187「主よ、いのちの」
賛 美 讃美歌 269「つみの重荷を」
聖 書 ヨハネによる福音書17章1節~5節(「新共同訳」新約202頁)
説 教 「命と永遠」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌 531「こころの緒琴に」
献 金
聖餐式
賛 美 讃美歌 543「主イエスのめぐみよ」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、
あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。 ― ヨハネ17:3
《本日(2025年3月2日)のメッセージ要約》ヨハネ17章1~5節「命と永遠」
「永遠の命」とは、この世の時間経過の中で話されている言葉ではなく、神様の永遠の内に命があることを意味しています。私の命と神様の永遠がつながっているということを表しています。神様は主イエスを通して永遠の命を示されました。救い主イエスは、神様の御子でありながらも人となり、人が抱える苦しみや痛みを引き受けられ、十字架にかかられました。主の十字架の死は私たちのためでした。救い主を十字架にかけてしまうという罪が極まってもなお、神様は私たちの命を引き取るのでなく、御子の命を引き取ることで、私たちを贖ってくださり、共にいてくださっていることを明らかにされました。さらに神様は十字架の死から主イエスを復活させ、どのような時にも共におられ、命を司っておられるということを明らかにされました。神様の恵みの御心が主イエスによって明らかにされ、神様は私たちの命と共にあって、永遠に寄り添っていてくださる、そのことが示されたのでした。私たちを導いている存在は神様であること、神様は救い主イエスによって私たちに贖いと希望を与えられたということ、このことを受け取ることができる恵みを私たちは知らされています。私と神様はつながっているのだと信じることができる幸いを与えられていて、私たちは今、永遠の命に生きているのです。 丸茂 誠