礼拝次第・説教要約
2026年1月11日 第二主日礼拝
前 奏
招 き ホセア12:6
賛 美 讃美歌21 25「父・子・聖霊に」
主の祈
交 読 交読詩編138編
賛 美 讃美歌21 419「さあ、共に生きよう」
祈 り
賛 美 讃美歌21 470「やさしい目が」
聖 書 詩編115編1~18節(「新共同訳」旧約955頁)
説 教 「お守り」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌21 127「み恵みあふれる」
献 金
賛 美 讃美歌21 28「み栄えあれや」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。― Ⅰコリント16:23
《本日(2026年1月11日)のメッセージ要約》詩編115編1~18節「お守り」
115編は、神様をこそほめたたえる言葉で始められています。神様を呼び求め、その御名に栄光を帰して歩む人々は、国々の民から「神はどこにいる」と問われました。「なぜ国々は言うのか『彼らの神はどこにいる」』と。」(2節)古代地中海世界において、戦いに勝った民が戦いに負けた民に対して、このように問いかけました。戦争は神々の戦いであると考えられていたため、戦勝国の人間が打ち負かした国々の民に向けて嘲りと侮蔑を込めて、「神はどこにいる」と投げかけ、自国の勝利を誇り、相手国を蔑んだのです。詩編115編における人々の状況は、バビロニアとの戦いに負け、国が滅亡し、捕囚となったこと、この出来事が背景にあったと考えられています。そのような中で115編に歌われている言葉は、下を向く言葉ではなく、天の神様のほうを向く上向きな言葉の数々が紡がれ、祈られています。戦いに負け、嘲笑を受けた深い悲しみと嘆きがあり、また自分たちの神様は共にいてくださなかったかと疑心暗鬼に陥ってしまいそうになる中で、この祈りを捧げた人の嘆きというものは、自分が恥辱を受けていることに対する嘆きではありませんでした。その嘆きは、自分たちの罪のために神様が蔑まれ、神様の名誉と栄光が傷つけられたことに対する嘆きでありました。その上で作者は、神様を礼拝することを止めてはならない、むしろ神様をほめたたえずにはいられない、その思いに駆り立てられ、神様に依り頼みました。「彼らの神はどこにいる」との恥辱にまみれたその言葉に対して、自分の屈辱が取り払われることを第一とするのではなく、神様の栄誉の回復をこそ第一として願い、この祈りを捧げたのでありました。 丸茂 誠
2026年1月4日 第一主日礼拝・新年礼拝
前 奏
招 き ミカ5:3
賛 美 讃美歌 544「あまつみたみも」
主の祈
交 読 交読詩編134編
賛 美 讃美歌 27「とこ世につきせぬ」
祈 り
賛 美 讃美歌第二編 152「古いものはみな」
聖 書 マタイによる福音書3章13~17節(「新共同訳」新約4頁)
説 教 「起き上がって」丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌 121「まぶねのなかに」
献 金
聖餐式
賛 美 讃美歌 543「主イエスのめぐみよ」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
起きよ、光を放て。
あなたを照らす光は昇り
主の栄光はあなたの上に輝く。 ― イザヤ60:1
《本日(2026年1月4日)のメッセージ要約》マタイ3章13~17節「起き上がって」
主イエスはヨハネのもとを訪れ、救い主として歩まれるそのお姿を現されました。主イエスがヨハネからバプテスマを受けられたことは、救い主が私たちと同じ罪人の一人となってくださったことを示す出来事でした。主は神様の御子でありながらも人となり、神様の御心に生きて、救い主としてのその存在を現されました。私たち一人一人に心を留め、共におられる、その神様の御心が、主イエスがバプテスマを受けられたことを通して明らかにされたのです。
「イエスはバプテスマを受けると、すぐ水の中から上がられた。」との言葉は主の十字架と復活の出来事を物語っています。神様に自分を明らかにし、神様から与えられることを受け入れてバプテスマに与るように、主イエスは神様にすべてを委ねられ、神様の御心を受け入れて十字架へと歩まれました。罪なき主イエスがどうして命を奪われなければならないのか、そこには思いもよらないことを経験する私たちの事柄のただ中に救い主は立っておられるということが示されています。そして、水の中から上がられたことは主イエスが十字架の死から起き上がって復活を遂げられたことを示唆しています。主イエスが私たちの痛みと共にあって十字架にかかり、復活を遂げ、なにものにも奪われない希望、変わることのない慈しみ、いつまでもやむことのない祝福を示し、起き上がられました。死という時を経ても、いついかなる時、どこにあっても、神様は共におられることが証明されたのです。私たちもまた神様と共にあるこの命に生きていること、生き続けていく者であることを知らされています。 丸茂 誠
2026年1月1日 元日礼拝
前 奏
招 き イザヤ42:6
賛 美 讃美歌 545「父の御神に」
主の祈
交 読 交読詩編93編
賛 美 讃美歌 444「世のはじめ さながらに」
祈 り
賛 美 讃美歌第二編 1「こころを高くあげよう」
聖 書 マタイによる福音書13章24~30節(「新共同訳」新約25頁)
説 教 「あなたと生きる」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌 453「きけや愛の言葉を」
献 金
賛 美 讃美歌 540「みめぐみあふるる」
祝 祷
後 奏
《本日(2026年1月1日)のメッセージ要約》マタイ13章24~30節「あなたと生きる」
主イエスは「毒麦のたとえ」を話されました。主人が畑に良い種を蒔きましたが、眠っている間に敵が来て、畑に毒麦の種を蒔いていきました。それで、畑には良い麦と毒麦とが育つことになってしまったところ、主人は良い麦まで一緒に抜くかもしれないので、刈り入れまで両方とも育つままにしておき、刈り入れの時、まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れることにしていきました。
主人は神様をたとえています。主人が刈り入れまで育つままにしておくようにしたことには、神様が私たち一人一人を大切に思っておられるということが表されています。良い麦の一本でも間違えて抜かれてしまうことがあってはならないとの御心を神様は抱いておられるのです。毒麦を抜くときに間違えて良い麦も抜いてしまうかもしれない、このことを避け、一本を守るために毒麦を抜かないでおく、そうした神様の絶対の愛を私たちは受けている存在であるということが示されています。一方で、麦が育った時、毒麦は集められ、焼くために束にされます。毒麦は焼かれるほかない、それが自分の境遇、行く末であるのではとも思い知らされるのです。しかし神様は人の痛みをご自分の痛みとして担い、主イエスの十字架を用意されました。主イエスが私の救い主となってくださり、十字架にかかってくださったことによって、私たちの罪を神様は慈しみで覆ってくださいました。焼かれなければならない苦しみを切り捨てず、その苦しみをご自分のものとして負い、御子の命をもって共にいてくださっているということを知らせてくださいました。主イエスが人となり、十字架と復活を遂げられたこと、このことを通して、あなたと生きるということを神様は御心に抱いておられる、「神が我々と共におられる。」というこの神様の思いがこの世界に示されています。 丸茂 誠
2025年12月28日 第四主日礼拝
前 奏
招 き ゼカリヤ6:12
賛 美 讃美歌21 85「サント サント サント」
主の祈
交 読 交読詩編121編
賛 美 讃美歌21 252「羊はねむれり」
祈 り
賛 美 讃美歌21 271「喜びはむねに」
聖 書 マタイによる福音書3章1~12節(「新共同訳」新約3頁)
説 教 「その時、この場所で、私は」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌21 268「朝日は昇りて」
献 金
賛 美 讃美歌21 28「み栄えあれや」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである ― ヨハネ1:18
《本日(2025年12月28日)のメッセージ要約》マタイ3章1~12節「その時、この場所で、私は」
バプテスマのヨハネは人々に悔い改めを説き、バプテスマを授け、人々を神様に立ち帰らせることを通して、救い主イエスを迎える準備を行いました。ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と人々に語りかけました。この言葉を不安に思うか、それとも喜ばしいと思うか、私たちは問いかけられています。「悔い改め」とは方向転換することです。また「天の国が近づいた」とは神様の御心が明らかになろうとしているということです。方向転換して、神様に心を向け、自分を明け渡し、神様の御心が明らかになろうとしていることを神様からの恵みとして喜んで受け取っていくのか、それとも、もたらされることを煩わしく思い、あるいは変わることに不安を覚え、神様が行おうとされることを受け入れていくことができず、むしろそれをなかったことのようにしてしまうのか、自分の国に生きるのか、天の国に生きるのか、この問いかけを受けます。
主イエスの命がこの世に誕生したことによって表された神様の御心は、慈しみに満ちたものでした。私たちが御言葉を受け入れることができなくても、神様は私たちを見放すことなく、見放すどころか、むしろ、独り子の命をもってして、私たちを慈しんでくださり、私たちと共におられます。そのことは、主イエスが十字架にかかり、復活を遂げられたことで鮮明なものとなり、すべての人に知らされることとなりました。私の救い主として十字架と復活を遂げた主イエスを受け入れ、私たちは神様に心を向け、日々、与えられている時と場所において、神様と共に生きています。 丸茂 誠
2025年12月21日 クリスマス礼拝
前 奏
招 き 詩編8:4~5
賛 美
主の祈 讃美歌21 26「グロリア、グロリア、グロリア」
交 読 交読詩編122編
賛 美 讃美歌21 259「いそぎ来たれ、主にある民」
祈 り
賛 美 讃美歌21 237「聞け、荒れ野から」
聖 書 マタイによる福音書2章13~23節(「新共同訳」新約2頁)
説 教 「人になる」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌21 262「聞け、天使の歌」
献 金
賛 美 讃美歌21 25「父・子・聖霊に」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 ― ヨハネ1:14
《本日2025年12月21日のメッセージ要約》マタイ2章13~23節 「人になる」
ヘロデ王は新しい王の誕生を阻止すべく躍起になり、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子の命を一人残らず奪いました。謂われなく命を奪われた人たちは、受け入れられない痛みの中で、止むことのない嘆きを抱えたことを思います。神様は人々の悲しみの姿を嘆かれ、ご自身が痛みを負うことを通して、すべての人のための希望を示されました。ご自分の独り子を人としての命をもってこの世に現されたのです。救い主イエスは、理不尽にも罪なくして十字架にかけられ命を奪われました。神様は人の罪を心に留め、不条理にも命を取られることの、この痛みをご自分のものとされ、私たちと共にいてくださることを明らかにされました。人とは神様と共に生きる存在です。神様は人を尊び、寄り添っておられます。その御心にあって、主イエスは人となり、神様と共に歩まれました。神様と共に生きていることを受け取り、人になる、この恵みが主イエスの誕生を覚えるこの時、この場所で、お一人お一人にもたらされています。クリスマスおめでとうございます。 丸茂 誠
2025年12月14日 アドベント第三主日礼拝
前 奏
招 き イザヤ55:12~13
賛 美 讃美歌 544「あまつみたみも」
主の祈
交 読 交読詩編96編
賛 美 讃美歌 107「まぶねのかたえに」
祈 り
賛 美 讃美歌 115「ああベツレヘムよ」
聖 書 マタイによる福音書2章1節~12節(「新共同訳」新約2頁)
説 教 「星に導かれて」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌 103「まきびとひつじを」
献 金
賛 美 讃美歌 540「みめぐみあふるる」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 ― ヨハネ1:9
《本日(2025年12月14日)のメッセージ要約》マタイ2章1~12節「星に導かれて」
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。」この東方の学者たちの言葉を聞いて、ヘロデ王やエルサレムの人々は不安を抱きました。自分を主として神様から離れてしまっていたヘロデ王の姿、また恐れや苦しみの中にあって神様と向き合うことができなかった人々の姿がありました。ユダヤにいた人々が神様と向き合うことなく、むしろ神様の導きを不安に思い、救い主の命を排除しようと考える始末であったのに対して、救い主の誕生を喜んだのは、神様との関係が遠い人たちでした。東方からはるばるユダヤにやって来た、主なる神様を知らなかった人たちでした。学者たちはユダヤ人の王の星が現れたことを知り、その誕生が自分に関わることであると受けとめたのです。そこには星を通して神様の導きがありました。星に導かれて、すなわち神様に導かれて、学者たちは幼子イエスのもとに辿り着き、喜びにあふれました。その姿はヘロデ王やエルサレムの人々が不安を覚えたのとは対照的な姿でした。自分が主であろうとする時、救い主の存在は恐れや不安をもって受けとめられるところ、救い主が自分の本当の主であると受けとめるところには喜びがあり、礼拝が生まれます。神様を知らなかった人たち、遠いところにいた人たちであった学者たちがイエスを自分の主であると受けとめたのでした。私たちもまた星に導かれています。神様が示されていることを受けて歩みましょう。自分を主とする歩みから肩の荷を降ろして、自分の主を受けとめる喜びにあふれてクリスマスの時へ向かいたいと願います。 丸茂 誠
2025年12月7日 アドベント第二主日礼拝
前 奏
招 き Ⅰサムエル2:6
賛 美 讃美歌 539「あめつちこぞりて」
主の祈
交 読 交読詩編98編
賛 美 讃美歌 215「あしたのひかり」
祈 り
賛 美 讃美歌 102「もろびと声あげ」
聖 書 マタイによる福音書1章18節~25節(「新共同訳」新約1頁)
説 教「つながっている」 丸茂 誠牧師
祈 り
賛 美 讃美歌 114「あめなる神には」
献 金
聖餐式
賛 美 讃美歌 542「世をこぞりて」
祝 祷
後 奏
報 告
《今週の聖句》
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 ― ヨハネ1:4
《本日(2025年12月7日)のメッセージ要約》マタイ1章18~25節「つながっている」
婚約者のマリアが自分によってではなく身ごもっていることを知らされ、ヨセフはひそかに縁を切ろうと決心しました。しかし天使から御言葉を受け、ヨセフは天使が話した通りにマリアを迎え入れ、子どもが生まれるとその子をイエスと名付けていきました。神様を愛し、隣人を自分のように愛するという正しさに生きたヨセフは、神様の御言葉に生き、またマリアと主イエスを愛して歩んだのでした。そうして主イエスの系図が成ることとなりました。アブラハムから始まり、ダビデを経て、主イエスにつながる系図が完結することになりました。主イエスは神様の独り子であられましたが、ヨセフが神様にすべてを委ねて、マリアを迎え入れ、マリアの胎の子を自分の子として受け入れたことにより、ヨセフは主イエスの父となり、ダビデの子孫から救い主が与えられるとの御言葉が実現することとなったのです。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(23節)神様は人の痛みをご自分の痛みとされている、そのようにして神様は私たちと共におられます。神様の独り子がこの世の人となる、救い主が十字架につけられる、相反する事柄を一つにする平和が主イエスを通してもたらされ、神様はすべての人を祝福し、私たちと共にいてくださることを表してくださいました。信じがたいこと、受けとめきれないことのただ中にも神様の御手は伸びていて、私たちは神様に支えられています。神様が私たちと共におられることを日々受け取り、主の到来の恵みを分かち合って、このアドベントの時を歩んでいきましょう。 丸茂 誠